"Playing with Lara" (Diane Carr 2002)
ScreenPlay (King & Krzywinska eds. 2002) 所収。
筆者のCarrは、2000年代から2010年代初頭にかけてよく名前を見かける。最近ではLucaの博論でも彼女の別の論文が参照されていた。
2000年代はじめに書かれた本稿は、論集のテーマである映画とゲームの相互参照を、『トゥームレイダー』(以下TR)のララと『エイリアン』のリプリーの比較によって考察している。書かれた時代のせいか、すでに古びてしまった論点も少なくない。映画空間の有意味性と、ゲームのそれの無機質さや必然性のなさの対比は、もはや今日では賞味期限切れだろう。PSからせいぜいDCあたりまでの初期『TR』では、たしかに画面が"清潔すぎる"という指摘も成り立ったかもしれない。今日のホラーゲームの多くは、汚さや気持ち悪さを積極的に売りにしており、映画よりもむしろ安価によりグロテスクな描写を量産している。というかこれはもともとホラーテイストのSFである『エイリアン』と、あくまでアドベンチャーであるTRの比較という、ジャンルのちがいによるところも大きいのでは。
本稿の主眼は、ゲームにおける女性の表象と、父権的制度の暗黙的な受け入れへの批判にある。ララ、女性表象(性的搾取)、ローラ・マルヴィという、今となっては食傷気味のコンボも、執筆当時は一定の新鮮味があったのだろう(2000年代は本当にこの組み合わせを何度も見た)。興味深いのは、『エイリアン』に言及したことで、キャロル・クローバーやバーバラ・クリードといったホラー映画の研究者と接続されている点だ。とくにリプリーがクローバーのいう「ファイナル・ガール」に該当する一方、ララが最初から唯一の(主人公サイドの)登場人物であることは、映画とゲームの物語構造のちがいの指摘としては現在でも通用する部分がある(もちろん例外も多い)。
ララの造形が男性デザイナーたちの欲望の下で生まれ(母の不在)、彼らの手を離れた後に(主として男性の)プレイヤーがその空席を埋めるという父権主義のサイクルへの批判は、いわゆる第二波フェミニズムの残滓という気がしないでもない。第三波の論者たちならむしろエイリアンへのカウンターとして、女性デザイナーが女性向けに作ったゲーム作品を俎上に載せるのではないか(守如子がレディコミを論じたように)。90年代はガールズ・ゲーム・ムーブメントの最中だったのだし。
短かったので一応通読してみたが、これを単体で読む意義は現在では薄れていると感じた。当時とは状況が違いすぎるのと、そもそもの比較にも無理があった。TRではなく『バイオハザード』(のジルやクレア)とエイリアンの比較なら、もっとスムースにいくのではないか。本書には、バイオにも言及があるTanya Krzywinkaの論考もあるので、次はそれを読もうかしら。
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